河辺温泉

 午後から晴れたので、河辺駅前の温泉〈梅の湯〉に行く。
 小さいが、いろんな設備があってうれしい。サウナも高温と低温と2種類ある。るらちゃんによると、化粧品も充実しているそうだ。
 初体験したのが「寝ころび湯」。はじめて来たとき無視したら、後でるらちゃんが「よかったよ~」と言うので入ってみた。
 浅い流湯に背中をひたして寝ころぶ。露天なので、雲が空を動いていくのが見える。ちょっと予想していなかった心地よさである。
 野菜たっぷりの皿うどんと塩辛をのせたじゃがいもで夕食。
 レンタルDVDで『僕の彼女はサイボーグ』を見る。
 劇場で『ICHI』を観て以来、るらちゃんのお気に入りの綾瀬はるか主演。サイボーグ彼女との日常生活を描いたシークエンスがいちばん楽しい。ラストは感情的に納得いかず。

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宗教の意味

 宗教は、人間にとって最も自然な存在様式なのだと思う。よくいわれることだが、何かを信じていない人間はいない。自己の欲望だろうと、科学だろうと、道徳だろうと、必ず何かは信じている。だから、問題は信じるか信じないかではなく、何をどう信じるかなのだ。宗教は、人間にとって根本的な信念自体を整序する。整序することへの抵抗感は、“神の見えざる手”を信じていることだともいえる。
 欲望には満足がなく、科学には意味がなく、道徳には保証がない。あると考えるのは、そう刷り込まれているに過ぎない。人間は普通、まず例外なく、幼少時からの“刷り込み”に支配されている。“刷り込み”を自分自身と認識し、現実そのものと信じて生活している。
 しかし、ときに“刷り込み”を超越して“絶対”に――すなわち人間が生きている原事実に到達する、いやそれぞれの条件のもとに幾分なりとも近づく人がいる。それが、道をひらく人なのだろうと思う。
 宗教には、無数のトラップがある。それでも、僕は宗教が好きである。生きる意味を全包容的に探求する方法は、ここでしか見出せないと思うのである。

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『神学部とは何か』

 副題は、「非キリスト教徒のための神学入門」。
 カール・バルトの自分固有の仕事に集中しているときに、神学者は最も多くの他人の関心を惹くことができるという信念を僕は共感とともに愛するが、この本の著者が『世界』にも『正論』にも原稿を書いて自分の中のインテグリティが崩れないのは、キリスト教の信仰を「キリスト教徒でない人に分かる言語と論理で説明しているという、非常に単純なこと」をやっているからという姿勢は大切だと思う。それは、もちろん著者が紹介しているフロマートカの「フィールドはこの世界だ」という言葉に通じている。異なる世界に声を響かせるにはセンスの良さと技術的な修練が必要だろう。
 われわれは「この世界」に住んでいるわけではない(「吾が国は此の世の国にあらず」)。が、われわれとは実は全人類のことである。聖書には、選ばれない者については何も書かれていないという話がp.60に登場するが、選ばれない者など本来存在しないのだと思う。

神学部とは何か

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『黙想と祈りの手引き』

 何事も巧みに行うには時間と手間を惜しまないのが一番だと思っている。黙想も同じであるらしい。1時間も2時間もかけて行う黙想を覚えることが勧められる。短時間の集中と違って、精神の緊張と同時に弛緩がなければならない。そうでなければ疲れてしまうだろう。いつでもどこでも、散歩しながらでも真理の言葉に思いを沈める。
 一方、アロウ・プレイヤーという言葉が紹介される。矢を放つような祈り。祈りたいことだけをまっすぐに神に届かせる祈りである。神との交わりは率直なのがいい。
 礼拝に生きると、顔つきも歩き方も声もまなざしも変わるものだという。信仰が全人格的なものであるなら、外見が変化するのも当然のことなのだろう。

黙想と祈りの手引き

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『福音主義神学入門』

「入門」といっても初心者向けの基礎概念の説明ではなく、いわば神学する者の心構えが説かれている。
 常に神を第一にするという信仰の鉄則は神学においても貫かれねばならない。神学は神についての学問であると同時に、神によって導かれる学問である。その限り謙遜な学問であり、また神を迎える喜びに満ちた学問でもある。
 どこかで読んだエピソードだが、著者のカール・バルトは誰かに「聖書の教えを一言で要約すると?」と訊かれた時、嬉しそうに『主われを愛す』という賛美歌を歌い始めたそうだ。
 確かにこの本を読んでいると、信仰の営みとしての“神学する喜び”が文章からにじみ出ているような気がする。

福音主義神学入門 #新教セミナーブック#

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『説教者を問う』 #2

 説教にとっての黙想の大切さが語られる。
 僕流の理解でいうと、黙想とは真理(とりわけそれを表現する言葉)にひたすら没頭することである。歩きながらでもいいし、部屋にこもってもいい。大切なのは信仰の心をもって真理に耳を傾けることである。
 黙想という言葉は、キリスト教のバックグラウンドを持つ『愛は刑よりも強し』をはじめ、谷口雅春先生のご著書にもときどき登場する。中には、神想観のことと説明してあるところもある。
 この黙想の深さが説教に重みをもたらすのである。
 さらにいうなら、〈祈り、黙想、試練〉ともある。ルターが神学の正しい学び方として語った言葉だそうである。「試練」を神や悪魔から来るものと考えると生長の家の教えと相容れないことは自明のようだが、自己を試みることの是非については考える必要があるかもしれない。“力試し”は普通に行われていることだからである。
 すなわち自己の完全性を認識していたら、それを“試みる”必要があるだろうかということである。
 また、力を持つ者はそれを認識だけしていることに飽き足らず、使ってみたくなるのではなかろうかということでもある。そのとき、“試みる”のではなく“ただ”行うことが必要なのかもしれない。

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『説教者を問う』

 目下、再読中。
 以下はその覚え書き。

 説教者は神から神の言葉を語る権能を与えられた者として自分自身を重んじることができなければならない。説教に重みを与える経験とは年齢ではなく信仰の深さである。説教者がどれだけ信仰に集中して生きているかが問われるのである。
 また、説教者は自分自身がそれによって救われることのできる言葉を語らなければならない。その意味で説教者はまず自分自身のために説教することができなければならない。

 キリスト教の説教と聖典講義の共通点は、言うまでもなく聴く人に真理を伝えることを目的としていることだと思う。聴く人が納得して真理を受け入れたとき、そこに救いの事実が実現する。

説教者を問う (説教塾ブックレット)

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今日の猫運

 朝、信号が変わるのを待っていたら、
 横断歩道を
(車が来なくてよかった)
 首輪をつけた猫が渡ってきて鳴きながら足元へ。
 のどをなでさせてもらった。

 猫運、絶好調。

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雨の日の休日

 引き続き、雨。
 昨日、借りてきたDVDを見る。
『パコと魔法の絵本』。
 るらちゃんと一緒だというのに涙が出てきて困った。
 この監督のタッチは根っから温かいので、多少どぎついことをしても悪趣味に感じられない。ステレオタイプな物語が変人たちに演じられて生き生きと躍動している。
 不満があるとしたら、大貫の「お前が私を知ってるってだけで腹が立つ」という台詞が今ひとつ生きていないこと。この繰り返しが際立ってこれば、「あの子の心に残りたいんだ」という気持ちにもっと共感できたと思う。それもあって、ストーリーがいまいちガマ王子に収斂していない気がする。
 続けて、『Mr.BRAIN』の第1話を録画ビデオで見てしまった。いろいろと菅野美穂の『キイナ ~不可能犯罪捜査官~』を思わせる内容。
 るらちゃんと僕の共通点のひとつは、頭が良くてちょっとエキセントリックな人が好きだということだと思う。

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桶と瓶

 朝起きると、雨。
 おぜんざいで昼食を済ませて、るらちゃんと買い物に。
 買ったのは、大きな桶と瓶。
 るらちゃん、それで今年は梅干と梅酒を作ってくれるそう。
 出来上がりが楽しみ。
 夜、借りてきたDVD『チャーリー・ウィルソンズ・ウォー』を見る。
 下っ端議員が奇策を使ってアフガニスタンの人々を援助する話かと思っていたら、違った。
 チャーリーは最初から世界情勢に対する認識が深いし、予算を操る力もある。援助の内容が、強力な兵器を供給してソ連のヘリを撃ち落とすことだというのも抵抗がある(ラストの苦味が解毒剤にはなるが)。
 少人数のプロが手堅く活躍する話と思えば楽しめるけど、寝る前に見るには少し寂しい後味が残った。

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猫の出迎え

 聖典講義を終えて外へ出たら、真っ白な猫が待っていてお腹をなでさせてくれた。
 最近、猫運が上がっているかも。

 るらちゃんによると、僕は猫並みに心拍数が多いそうだ。

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聖典講義(15)

 今回は、とても緊張した。
 準備を始めるのがいつもより遅かったのだが、勉強すればするほど緊張が募っていくのがわかった。始まる直前など動揺に近かった感じ。それだけ勉強不足が痛感されたということだろう。これには、焦った。
 おまけに、大事なことを言い忘れたことに終わってから気づいた。今を生きることと願いを叶えることの関係について。次の機会に話したいと思っている。
 テキストは、『生命の實相』頭注版第12巻。
 万教帰一篇の下である。人間が救われるとはどういうことかが基本的なモチーフになっていると感じたので、第2章のタイトル「われらを浄土に救うものは何か」をそのままテーマとした。
 真理を表現できることは、どんなにありがたいことかと思う。

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訃音に接して

 ネットで中島梓さんの逝去を知って、ショックだった。
 がんのことはもちろん知っていたので、グイン・サーガの完結を見るという望みはとうに捨てていたが、僕が生涯の一時期、最も好きだった作家がこの世を去ってしまったという感慨は、大きい。それも、たった56歳で。
 『SFマガジン』のブックレビューや『小説道場』など、中島さんの評論活動――すなわち文体と価値観には相当に影響された。今ではさすがに表面的な影響は払拭されていると思うが、当時はあからさまに“中島節”を真似て文章を書いていたのである。『幻影城』に始まるこの人の評論活動をどこかで拾い集めてくれないものか。
 誰かの訃音に接すると、マレーネ・ディートリッヒだったかが亡くなったとき、淀川長治さんが新聞に出したコメントの言葉を必ず思い出す。「そう、みんな死んじゃうのね」というのである。
 合掌。

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シュヴァンクマイエルとクエイ

 るらちゃんがいない間に、人形アニメのDVDを2枚見た。
 1枚は、ブラザーズ・クエイのBOXセットから「ショート・フィルム・コレクション」の2枚目。
 クエイ兄弟の作品には恩がある。
 以前、映画を見まくったあげく自分がどうして映画を見ているのかさっぱりわからなくなってしまったとき、今回のBOXセットには収録されていない「レオシュ・ヤナーチェク」だったと思うが、蛾の影の羽ばたきの繊細な美しさに見とれて、僕はこの美しさと出会うために映画を見ているのだと気づいたことがある。すなわち、映画とは光と影の戯れにほかならないことを教えてくれたのがクエイ兄弟だった。
 同じ人形アニメの技法を使っても、シュヴァンクマイエルにとってはそれが手段であるのに対し、クエイ兄弟にとっては目的であるという感じがする。だからシュヴァンクマイエルの作品は風刺的なのだし、クエイ兄弟は耽美的なのだ。
 というわけで、シュヴァンクマイエルの『ルナシー』を続けて見た。
 初見である。もっと趣味全開の作品かと思っていたが、モチーフは前々作などと比べてむしろ一般化しているように感じた。
 制作されたのは彼が70歳前後のとき。
 それを思えばたいした持続力である。僕はこんな爺さんになりたいと思う。

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信仰の死

『イエスはなぜわがままなのか』(岡野昌雄著、アスキー新書)をひろい読みしていたら、こんなくだりがあった。

納得できないということと、それが間違っているという結論とが直接結びつかないからです。

『聖書』には納得のいかない部分もあるということを述べたくだりである。
 こうもある。

「すべて理解できるもの」を信じるというのであれば、それはそもそも信仰ではない

 共感した。

 が、僕の常として危険も感じる。妄信する人間の怖さを無視できないからである。
 信じることが初めの一歩。
 しかし、健全な理性の働きとは素朴な疑問を持つこと以外の何だろうか。

 キリスト教の強みは矛盾を内包していること自体にあると思う。
 たとえば、説教学。
 神と人間との距離を無限大に設定したうえで、その神の言葉を人間がいかに語れるかを問う。
 疑問は壁ではない。
 信仰をドライブさせるための強力なエンジンである。

 歩み続けること、それは生きること。
 思考停止は信仰にとっても死を意味する。

 とはいえ、祈りは思考以上のものであるだろう。
 その前提がなければ、「それはそもそも信仰ではない」。

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カレーを食べる

 仕事で帰りは0時半。
 一日楽しみにしていたるらちゃんのカレーを食べる。
 昨日より落ち着いたかと思ったが、辛さはあいかわらず。
 なす、シーチキンのほかにすりおろしたじゃがいもとにんじん、にんにく、とろみをつけるためのもちが入っている。
 辛いというより、口の中が痛い。旨いのだ、これが。

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あした天気になあれ(暑くない程度に)

 るらちゃんは朝から旅行の準備。
 団参へ行くのである。
 出発は明日。
 留守中に僕が食べるなすとシーチキンのカレー(唐辛子7本入り)を作り、ワイシャツにアイロンをかけてくれた。
 ありがとう。
 2晩だけど、あなたがいないと寂しいよ。

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ちょっとコマーシャル

「光のギャラリー ~絵手紙・絵封筒展」が開催されます。
 主催は、僕のTK仲間のTKさん。(僕も本名は頭文字がTK)
 TKさんのブログ「光のギャラリー ~アトリエTK」に投稿された読者の絵手紙・絵封筒や、一般からの公募作品を展示するそうです。
 期間は、5月26日(火)~31日(日)。
 連日、絵手紙・絵封筒づくりのワークショップも開催――これが、かなり面白くなりそう。
 大手町の「ていぱーく(逓信総合博物館)」にて。
 詳細は、TKさんのブログまで。
  → http://atelier-tk2.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-d0bc.html

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映画鑑賞的休日

 今日は借りてきたDVDを2本見る。
 1本目は、『大決戦!超ウルトラ8兄弟』。
 ストーリーは詰めが甘い。しかし、おじさんウルトラマン4人の変身。涙なしには見られない。
 るらちゃんが劇場予告編で見たという「ウルトラマンって本当にいたんだ!」という台詞を楽しみにしていたのだけれど、無かった。なぜ?
 もう1本は、『ゲット スマート』。
 往年のテレビドラマ&映画の最新版。
 快作。過去のテイストを引き継ぎながら、現代的にぐっとブラッシュアップ。るらちゃんといっしょに汗をかくほど笑い転げた。
 昔、深夜のテレビで洋物のコメディ・ドラマを放送していて、母がビデオに録画してくれるのを楽しみに見てたっけ。
『OK捕虜収容所』『ミスター・ロバーツ』『おかしなカップル』『ベンソン』……『それ行けスマート』もそれで見たのかな。
 懐かしい。

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芸術鑑賞的一日

 朝から、『ヤマトナデシコ七変化』の23巻を読む。
 このマンガも変わらないねぇ。
 今回は、武長くんと乃依っちの出番が少なくて残念。このカップル好きなのだ。
 午後3時過ぎ、るらちゃんと青梅市立美術館へ。
 プログラムは「白と黒 水墨の世界」。
 ひとくちに水墨画というが、豊かなヴァリエーション。
 展示は、34作品。このくらいの規模だと集中して見てもお腹にもたれなくていい。
 それに、この美術館は展示説明の文章がとてもわかりやすい。
 作品では、川合玉堂の「観瀑白衣大士像」が僕好み。気品と洒脱のデザイン。
 また、玉堂美術館に行きたくなる。
 夕食は、スパゲッティ。しゃけとカリフラワーのホワイトソース。絶品。もちろん、るらちゃんのお手製。
 夜は、借りてきたDVD『ティンカー・ベル』を見る。
 出だしがロマンチック。そして色彩がきれい。

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«食べることと感謝